不可説不可説転

早く人間になりたーい

2020年、カルディのクリスマスブレンドに感動する

まもなく師も走りだす今日この頃、走り回る師が増えだす前にとコーヒー豆のストックを買いに出かけた。

 

さて、僕は普段コーヒー豆をカルディでは買わない。
というのも、ずいぶん前に完全予約注文で購入した高級コーヒー豆の味わいが平凡でひどく落胆させられたからだ。それは数年に一度しか収穫されない珍しい品種であるという触れ込みであり、香りに特別なものがあるという話であった。
しかし結果は前述のとおりである。

別に高ければ美味しいとか特別であるとは限らないのがコーヒーの常である。希少価値の高いコーヒーは味わいに関わらず高価になる。たとえばハワイのコナコーヒーなんかがその典型だ。(別にぼったくりだとか言いたい訳ではない、念のため)(お土産として特別感があって万人受けする味わいは長所だ)

だから値段が高いのに!とかそういう落胆は別にない。ただ、コーヒーをメインで扱う店としてのプロ意識というか、そういうものにガックリきたのだ。希少価値の高いだけのものを、ただそれだけを持って散々特別感を煽り立てたのに対して、僕の信頼は砂上の城のように一晩にして崩れ去ったわけだ。

 

ならばなぜ今更になってカルディでコーヒー豆を買う気になったのかというと、たまたまフェアトレードのブラジルの深煎りのものがセールになっていたからだ。
ブラジルは中煎りが多いが、これは深煎りである。そしてブラジルは美味い。どんな微妙な喫茶店だろうと、ブラジルが不味かったことは一度もない。わりとオールラウンダーで、どんな煎り方をしても抜群の安定感を誇るコーヒー、それがブラジルである。早い話が、たとえ転んだとしても重傷だけはあり得ないという、それだけの理由で買った。
不味ければカフェオレにすればいいし。

店員さんに注文を伝え、さて支払いを待とうかと思ったところで「深煎りがお好きでしたらただいまクリスマスブレンドが出ておりますが、ご一緒にいかがですか?」と笑顔で尋ねられた。ちょうど混雑している頃だったが、ちゃんと接客しようとする誠意ある姿に胸を打たれ、話を聞いてみることにした。

いわく、「深くコクのある味わい」で「カフェオレにも向いている」、さらに「定価に200円弱の追加でチョココーティングされた大きめのバウムクーヘンがつくセットになる」と言うことである。さらにそのバウムクーヘンとコーヒーは相性が良いのかと尋ねると、「本社のバイヤーたちがいろいろなお菓子とペアリングして最も相性の良いものを選んだ」と。コーヒーはワインと同じように、フードペアリングによってさらにいくつもの表情を見せる飲み物である。きちんとしたペアリングで決めたとなれば気になる……
それならばと購入することにした。

 

そして翌朝、いつものルーティンでコーヒーを淹れた僕は衝撃を受けることになる。

 

このコーヒー、めちゃくちゃ美味い!!!!!!!
深いコクに滑らかさを感じる甘みが少し、酸味はほとんどなく、食事からデザートまで幅広く楽しめる。特に秋からクリスマスシーズンに向けて味わいのはっきりとした食べ物が中心になるこの季節、栗や芋や、チキンにサーモンにきのこ等々、洋風の味付けにしたりデザートにする場合、味も食感も濃厚なものになる。それらの味と調和しながらもしっかりと支えられるだけの深さと、寄り添う余地を残す甘み。カフェオレにすればミルクの甘みが引き立つ。余韻を残すが口の中が苦くなるようなものではなく、特別な食事の名脇役として人知れず食卓を支える謙虚さに好感度は大爆発だ。

しかし何よりこのコーヒーが優れている点は、冷めてもほとんど味わいが変わらないところにある。
大事なことなのでもう一度言う。冷めてもほとんど味わいが変わらない。

ドリップコーヒーを飲む人なら分かると思うけれど、コーヒーの味わいは非常に繊細であり、温度の変化ともに味わいも変わっていく。温度の高いうちは深みやコクが強く、冷めていくにしたがってまろやかさや酸味が強くなっていく。時間とともに変わりゆく味わいを楽しむのもコーヒーの醍醐味のひとつだ。
そこでこう思われるかもしれない。醍醐味なくなってるじゃん、と。確かにそのとおりである。しかし、だ。

しかしこのコーヒーの名前を思い出して欲しい。クリスマスブレンドである。そう、「クリスマスブレンドである。

 

クリスマスを祝う際の食事風景を想像してみて欲しい。
大抵の場合はいつもより贅沢なものが並ぶだろう。そして特別な人たちと食卓を囲むにせよ、ひとりで気軽に楽しむにせよ、それがお喋りなり音楽なり映画なり、好きなことをしながらの時間になることと思う。量が多く、さらになにかをしながらの食事は、きっと時間だって長い。
つまりなにが言いたいかというと、冷めないうちにコーヒーが飲みきられることはまずないだろうということだ。

悲惨なコーヒーあるあるとしてやらかしがちなのが、味の相性がいいと思って淹れたコーヒーがすっかり冷めきってしまい、酸味が強く出てしまったために相性が悪くなるというやつである。うっかり口にして「!?」となり、微妙にショックを受ける。しかも大抵の場合、食事との相性の悪さからねっとりと余韻が残る。リセットするまで続きを食べることもできない。楽しいディナータイムやらコーヒータイムは一時的にトーンダウンするだろう。

しかも楽しい席でのことだ。よっぽど働き者かコーヒー好きでもいない限り、淹れなおそうとはならないのではないだろうか。

そして結局、すっかり別人のように様変わりしてしまったコーヒーがほとんど手をつけられないままそこに鎮座し、存在を認識しながらも手が伸びず、しかしすっかり忘れ切れるほどにはコーヒーのような存在が全く不要になることもなく、微妙な距離を保ったまま続く。たまにうっかり手をつけてしまってまたちょっとテンションを下げられることもあるだろう。

そう、クリスマスのようなイベントごとに関していえば、ゆっくりと味わう対象は時間であり、コーヒーではないということである。
クリスマスに求められるコーヒーの姿は、いつまでも変わらず静かにそこに居続け、どんなタイミングで口にされようとも何者も邪魔せず、しかし密かに主役となる存在を引き立てることであり、食事からデザートまでの長い時間、たとえ冷め切ってしまったとしても柔らかく包み込むコクと余韻を失わないことである。

 

なにかに熱中してしまい、うっかり長時間放置してしまったうえに、そのこともすっかり忘れてうっかり口をつけてしまったとしても、このブレンドはびっくりほど自然になじむ。あまりにも違和感がないので、飲み切って時計を見てようやく僕は仰天した。淹れてから3時間も経っていたのだ。冷めていることは認識していたけれど、そういえば酸味にうぇってならなかった……と。そして、え!カルディのクリスマスブレンドすごい美味しい!と思って、そうか、クリスマスだからかと感動感激雨あられ

 

コーヒーを扱う店はほぼ100%クリスマスブレンドなるものを出す。そして協定でもあるのか?と言いたくなるほどみんな揃いも揃って深煎りのコクがあるものだ。食事やデザート(主にケーキを意識しているのだろう)に合わせるのが目的だから、似たようなコンセプトになるのは分かる。僕はコクのしっかりとした味わいのコーヒーが好きだから、クリスマスの時期はいつもほくほくだ。でもそれゆえに似たり寄ったりになりやすいことを残念に思う気持ちも少なからずあった。

ある食べ物と合わせることを意識したコーヒー、つまりある一点ある一瞬を対象にしたコーヒーが数多くあれども、ある時間全体を対象にしたコーヒーをこれまでほとんど見たことはなかった。ほとんど見たことがなかったので、そういったコンセプトがありうる事さえ頭から追いやられていた。

 

だから僕はこんなにも衝撃を受け感動したのだ。カルディのクリスマスブレンドに。
他の多くのクリスマスブレンドが「特別な時間のための特別なブレンド」であるならば、カルディのクリスマスブレンドは「特別な時間を特別にするためのブレンド」と言えるかもしれない。味わい自体はそのオールラウンダーぶりからも分かるとおり、万人受けする優等生的なものだ。なにか際立っているものがある訳ではない。しかし、ブレンドのコンセプトは異色と言って良いほど際立っている。

クリスマスというイベントがどういうものによって形作られているか、そういうところから組み上げたコンセプト。
特に僕のように人付き合いが苦手でそういう要求もない人間は、ついつい物そのものの価値や性質を優先させてしまいがちだ。特別な何かをするにしても、どのような時間を過ごすかより、どのような物をお供にしようかと考えがちで、これは僕のような性質でなくても特別であればあるほど出てきてしまう傾向ではないだろうか。

だから僕は、そうか、こういうのもありなんだ、とただ感激した。カルディにとっては、特別なものより特別な時間が存在しうることの方が大事であるという、そういう真摯な姿を見た気がしたのだ。
クリスマスを前に、カルディのクリスマスブレンドによって少しだけ「イベント」なるものへの見方が少し変わったという話。

 

忘れてたけどバウムクーヘンもめっちゃ美味しかったです。お買い得でゲイツ