不可説不可説転

早く人間になりたーい

2020年、カルディのクリスマスブレンドに感動する

まもなく師も走りだす今日この頃、走り回る師が増えだす前にとコーヒー豆のストックを買いに出かけた。

 

さて、僕は普段コーヒー豆をカルディでは買わない。
というのも、ずいぶん前に完全予約注文で購入した高級コーヒー豆の味わいが平凡でひどく落胆させられたからだ。それは数年に一度しか収穫されない珍しい品種であるという触れ込みであり、香りに特別なものがあるという話であった。
しかし結果は前述のとおりである。

別に高ければ美味しいとか特別であるとは限らないのがコーヒーの常である。希少価値の高いコーヒーは味わいに関わらず高価になる。たとえばハワイのコナコーヒーなんかがその典型だ。(別にぼったくりだとか言いたい訳ではない、念のため)(お土産として特別感があって万人受けする味わいは長所だ)

だから値段が高いのに!とかそういう落胆は別にない。ただ、コーヒーをメインで扱う店としてのプロ意識というか、そういうものにガックリきたのだ。希少価値の高いだけのものを、ただそれだけを持って散々特別感を煽り立てたのに対して、僕の信頼は砂上の城のように一晩にして崩れ去ったわけだ。

 

ならばなぜ今更になってカルディでコーヒー豆を買う気になったのかというと、たまたまフェアトレードのブラジルの深煎りのものがセールになっていたからだ。
ブラジルは中煎りが多いが、これは深煎りである。そしてブラジルは美味い。どんな微妙な喫茶店だろうと、ブラジルが不味かったことは一度もない。わりとオールラウンダーで、どんな煎り方をしても抜群の安定感を誇るコーヒー、それがブラジルである。早い話が、たとえ転んだとしても重傷だけはあり得ないという、それだけの理由で買った。
不味ければカフェオレにすればいいし。

店員さんに注文を伝え、さて支払いを待とうかと思ったところで「深煎りがお好きでしたらただいまクリスマスブレンドが出ておりますが、ご一緒にいかがですか?」と笑顔で尋ねられた。ちょうど混雑している頃だったが、ちゃんと接客しようとする誠意ある姿に胸を打たれ、話を聞いてみることにした。

いわく、「深くコクのある味わい」で「カフェオレにも向いている」、さらに「定価に200円弱の追加でチョココーティングされた大きめのバウムクーヘンがつくセットになる」と言うことである。さらにそのバウムクーヘンとコーヒーは相性が良いのかと尋ねると、「本社のバイヤーたちがいろいろなお菓子とペアリングして最も相性の良いものを選んだ」と。コーヒーはワインと同じように、フードペアリングによってさらにいくつもの表情を見せる飲み物である。きちんとしたペアリングで決めたとなれば気になる……
それならばと購入することにした。

 

そして翌朝、いつものルーティンでコーヒーを淹れた僕は衝撃を受けることになる。

 

このコーヒー、めちゃくちゃ美味い!!!!!!!
深いコクに滑らかさを感じる甘みが少し、酸味はほとんどなく、食事からデザートまで幅広く楽しめる。特に秋からクリスマスシーズンに向けて味わいのはっきりとした食べ物が中心になるこの季節、栗や芋や、チキンにサーモンにきのこ等々、洋風の味付けにしたりデザートにする場合、味も食感も濃厚なものになる。それらの味と調和しながらもしっかりと支えられるだけの深さと、寄り添う余地を残す甘み。カフェオレにすればミルクの甘みが引き立つ。余韻を残すが口の中が苦くなるようなものではなく、特別な食事の名脇役として人知れず食卓を支える謙虚さに好感度は大爆発だ。

しかし何よりこのコーヒーが優れている点は、冷めてもほとんど味わいが変わらないところにある。
大事なことなのでもう一度言う。冷めてもほとんど味わいが変わらない。

ドリップコーヒーを飲む人なら分かると思うけれど、コーヒーの味わいは非常に繊細であり、温度の変化ともに味わいも変わっていく。温度の高いうちは深みやコクが強く、冷めていくにしたがってまろやかさや酸味が強くなっていく。時間とともに変わりゆく味わいを楽しむのもコーヒーの醍醐味のひとつだ。
そこでこう思われるかもしれない。醍醐味なくなってるじゃん、と。確かにそのとおりである。しかし、だ。

しかしこのコーヒーの名前を思い出して欲しい。クリスマスブレンドである。そう、「クリスマスブレンドである。

 

クリスマスを祝う際の食事風景を想像してみて欲しい。
大抵の場合はいつもより贅沢なものが並ぶだろう。そして特別な人たちと食卓を囲むにせよ、ひとりで気軽に楽しむにせよ、それがお喋りなり音楽なり映画なり、好きなことをしながらの時間になることと思う。量が多く、さらになにかをしながらの食事は、きっと時間だって長い。
つまりなにが言いたいかというと、冷めないうちにコーヒーが飲みきられることはまずないだろうということだ。

悲惨なコーヒーあるあるとしてやらかしがちなのが、味の相性がいいと思って淹れたコーヒーがすっかり冷めきってしまい、酸味が強く出てしまったために相性が悪くなるというやつである。うっかり口にして「!?」となり、微妙にショックを受ける。しかも大抵の場合、食事との相性の悪さからねっとりと余韻が残る。リセットするまで続きを食べることもできない。楽しいディナータイムやらコーヒータイムは一時的にトーンダウンするだろう。

しかも楽しい席でのことだ。よっぽど働き者かコーヒー好きでもいない限り、淹れなおそうとはならないのではないだろうか。

そして結局、すっかり別人のように様変わりしてしまったコーヒーがほとんど手をつけられないままそこに鎮座し、存在を認識しながらも手が伸びず、しかしすっかり忘れ切れるほどにはコーヒーのような存在が全く不要になることもなく、微妙な距離を保ったまま続く。たまにうっかり手をつけてしまってまたちょっとテンションを下げられることもあるだろう。

そう、クリスマスのようなイベントごとに関していえば、ゆっくりと味わう対象は時間であり、コーヒーではないということである。
クリスマスに求められるコーヒーの姿は、いつまでも変わらず静かにそこに居続け、どんなタイミングで口にされようとも何者も邪魔せず、しかし密かに主役となる存在を引き立てることであり、食事からデザートまでの長い時間、たとえ冷め切ってしまったとしても柔らかく包み込むコクと余韻を失わないことである。

 

なにかに熱中してしまい、うっかり長時間放置してしまったうえに、そのこともすっかり忘れてうっかり口をつけてしまったとしても、このブレンドはびっくりほど自然になじむ。あまりにも違和感がないので、飲み切って時計を見てようやく僕は仰天した。淹れてから3時間も経っていたのだ。冷めていることは認識していたけれど、そういえば酸味にうぇってならなかった……と。そして、え!カルディのクリスマスブレンドすごい美味しい!と思って、そうか、クリスマスだからかと感動感激雨あられ

 

コーヒーを扱う店はほぼ100%クリスマスブレンドなるものを出す。そして協定でもあるのか?と言いたくなるほどみんな揃いも揃って深煎りのコクがあるものだ。食事やデザート(主にケーキを意識しているのだろう)に合わせるのが目的だから、似たようなコンセプトになるのは分かる。僕はコクのしっかりとした味わいのコーヒーが好きだから、クリスマスの時期はいつもほくほくだ。でもそれゆえに似たり寄ったりになりやすいことを残念に思う気持ちも少なからずあった。

ある食べ物と合わせることを意識したコーヒー、つまりある一点ある一瞬を対象にしたコーヒーが数多くあれども、ある時間全体を対象にしたコーヒーをこれまでほとんど見たことはなかった。ほとんど見たことがなかったので、そういったコンセプトがありうる事さえ頭から追いやられていた。

 

だから僕はこんなにも衝撃を受け感動したのだ。カルディのクリスマスブレンドに。
他の多くのクリスマスブレンドが「特別な時間のための特別なブレンド」であるならば、カルディのクリスマスブレンドは「特別な時間を特別にするためのブレンド」と言えるかもしれない。味わい自体はそのオールラウンダーぶりからも分かるとおり、万人受けする優等生的なものだ。なにか際立っているものがある訳ではない。しかし、ブレンドのコンセプトは異色と言って良いほど際立っている。

クリスマスというイベントがどういうものによって形作られているか、そういうところから組み上げたコンセプト。
特に僕のように人付き合いが苦手でそういう要求もない人間は、ついつい物そのものの価値や性質を優先させてしまいがちだ。特別な何かをするにしても、どのような時間を過ごすかより、どのような物をお供にしようかと考えがちで、これは僕のような性質でなくても特別であればあるほど出てきてしまう傾向ではないだろうか。

だから僕は、そうか、こういうのもありなんだ、とただ感激した。カルディにとっては、特別なものより特別な時間が存在しうることの方が大事であるという、そういう真摯な姿を見た気がしたのだ。
クリスマスを前に、カルディのクリスマスブレンドによって少しだけ「イベント」なるものへの見方が少し変わったという話。

 

忘れてたけどバウムクーヘンもめっちゃ美味しかったです。お買い得でゲイツ

諦めることに慣れてしまった君への特効薬 『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』

キャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースは特異なヒーローだ。
なぜなら彼は、初めからヒーローだから。

基本的にヒーローのオリジンとは、器に中身を入れる(見出す)までの物語である。
さらに大別すると、元々持っていた力を自覚することによってヒーローの精神に目覚めるか、偶然備わってしまった力に向き合う形でヒーローの精神に目覚めるかの2パターンになる。具体例でいうと、前者はアイアンマンやソーだし、後者はスパイダーマンやハルクだ。

それならばキャプテン・アメリカはどちらだろうか。

正解はどちらでもない、だ。
彼は基本的なヒーロー誕生譚とは真逆の存在だ。すなわち、元々中身だけがあって器を持たない。心だけが最初からヒーローなのだ。

つまりキャプテン・アメリカの、スティーブ・ロジャースの物語は心の物語であり、精神の在り方であり、向き合う姿勢のことである。

ティーブは何も持たぬ社会的な弱者で、奪われる者だった。
父は第一次世界大戦で戦死し、母は看護師であったが感染症で病死し、若くして天涯孤独の身の上であり、さらに貧乏であるばかりか体も弱く病気がちで、体躯は貧相なものだった。
唯一持っているものと言えば、親友で家族同然の仲であるバッキーだけだ。

そのバッキーも第二次世界大戦勃発で徴兵されてしまった。
誰よりも正義感が強く、戦争を終わらせるために兵士になりたいと志願しても、喘息持ちでガリガリの女より小さい男など誰も相手にしない。ゴロツキに絡まれても殴り返すことすらできない。痛々しくて涙が出てくる。

それでもスティーブは諦めない。出身地を偽装してまで何度でも入隊を志願するし、どれほど殴られても立ち上がり続ける。相手が諦めるまでは絶対に諦めない。

この強い意志が、揺るがぬ決意こそがスティーブをキャプテン・アメリカたらしめているのだ。だからこそ彼の物語は凡人である僕の心をこんなにも打つ。強く訴えかけてくるのだ。
だって大抵の人間の人生なんてものは諦めでできている。そうではないか?少なくとも僕はそうだ。

先に白状してしまうと、わたくし前中はキャプテン・アメリカを心底尊敬しているから、これを書いているときも冷静ではない。もう何十回も観ている作品だが、観るたびに泣いているほどである。だからここで言ってしまう。
絶対面白いからとにかく観てくれ!!!

1940年代のレトロ×SFな世界観

本作を観始めて最初に目を引くのは、その世界観だ。

すでにMCUは、アイアンマンなどの最先端テクノロジーをゴリゴリ推したかっこいい世界観を提示ししてしまっているので、5作目にしていきなり舞台が第二次世界大戦になるのはなかなかのハードルだと思う。が、その点を逆手にとって見事に活かしている。
登場する兵器がいちいち格好いいのだ。

未来的で無機質なデザインが溢れかえっている現代では、むしろレトロなデザインが真新しく見える。しかも当時のデザインをそのまま流用するのではなく、ちゃんと驚けるような新しさを組み合わせているのだ。

特にヒドラの兵器のデザインが凄く良くて、ドイツ的なブリキ感というか、なんかゴッツイ感じでありながら独特のカーブを持ったフォルムがクールだ。これが何とも言えない迫力を持っていて、相手の方がアメリカよりも技術力を持っているという絶望感を絵的に体現しているのは実に見事だ。

正統派アクション

それからキャプテン・アメリカの良さは何と言っても、肉体的な説得力を伴ったアクションにある。MCUで最も白兵戦が得意なヒーローとして、素晴らしい存在感を示しているのだ。

円形の盾で戦うなんて初めて聞いた時は正気かと思ったが、軌道を完全に把握したトリッキーな投擲技は素晴らしく、さらに画が良いだけでなく、瞬時に計算するスティーブの能力の高さまで裏付けているのだから凄い。

またバッキーから教わったボクシングをベースにした格闘技はスピードとパワーを兼ね備えており、無類の美しさと格好良さを持っていて、さらにそこにスティーブ演じるクリス・エヴァンスの圧倒的運動能力が加わって、さながら舞踊のような華があるのだ。
この人、学生時代は演劇をやっていてミュージカルが大好きだからダンスはお手の物。この素質が走る姿ひとつですら唯一無二の芸術的なシルエットに仕立てている。

まさに必見だ!

 

変わらぬ友情、新しいパートナー

ティーブは高潔な男だが、その境遇を考えるとどうしてここまで真っすぐでいられるのかが分からない。その鍵を解く存在がバッキー・バーンズだ。

バッキーはスティーブとはまるで正反対で、裕福な家庭の育ちで体格に恵まれており、ウェルター級(ボクシングの花形階級だぞ!)の元チャンピオンという、モテモテの男である。
これだけ聞くとキザな感じがするが、スティーブの事を心から尊敬していて、いつも冗談ばっかり言いつつも真面目に心配する様子には深い愛情を感じられる。
あと、見る影もないムキムキマッチョに進化した親友ティーを一目見ただけなのに、なんでそんな一瞬で受け入れられるんだバッキー。親友力高すぎ。

バッキーにとってスティーブは、どんな姿になろうとも勇気しか持たないもやし野郎なのだ。そしてスティーブが何者であるかを見失わなかったのは、自分を信じてくれるバッキーがいたからに違いない。

本当のスティーブの姿を知る人がもうひとりいる。
ペギー・カーターだ。

彼女は言わばスティーブと鏡合わせの存在である。時代が時代だから、女性は軽んじられている。そんな世界にあって、意志の力のみを原動力に軍人として戦い続けている人だ。
その姿はまるで、超人兵士にならなかったIFの世界のスティーブのようである。

ふたりは強い意志によって結ばれた盟友で、ペギーはスティーブの導き手だ。
それを象徴するかのように、スティーブのコンパスには彼女の写真が入れられている。

徴兵され捕虜となったバッキーを救いたいという思いと、意志の力を信じるペギーの後押しが、キャプテン・アメリカというヒーローをこの世に生み出す。

このスケールの小ささがとても良い。
これこそが、キャプテン・アメリカの精神そのものなのだから。



※ここからネタバレ入ります

 

ザ・ファースト・アベンジャー

キャプテン・アメリカというゴテゴテのネーミングと、金髪碧眼ムキムキマッチョという脳筋感、星条旗を模したユニフォームから、単純なアメリカ礼賛戦意高揚プロパガンダマスコットというイメージをなんとなく持っている方もそれなりにいるだろう。(観終わったらそう見えなくなるが)

これは完全な誤解である。
そもそもキャプテン・アメリカとは、第二次世界大戦当時中立をきめこむアメリカに対して、ユダヤアメリカ人のクリエイターが正義の鉄槌を体現するものとして創出したヒーローだからだ。

同胞を痛めつけるナチに対して正義の使者による報復を望み、そこに自由の国アメリカの精神を重ねる形で誕生したのがキャプテン・アメリカである。
だから本作の副題は「ザ・ファースト・アベンジャー:最初の報復する者」なのだ。

そしてもうひとつ意味がある。
アベンジャーとは、立ち上がる者のことでもあるのだ。

ティーブはどんなことがあっても立ち上がり続ける。
そしてそれが物事を少しずつ良い方向へ導いていくのだ。

ゴロツキに殴られても何度でも立ち上がったことがバッキーとの友情を生んだし、何度志願して落とされても立ち上がり続けたからこそアースキン博士と出会い、スーパーパワーを手に入れた。兵士ではなく軍隊が欲しかったと無用の長物と見做され戦時国債販売のマスコットになった時も、捕虜にされた人々を救いたい一心から立ち上がり、ひとりで敵に立ち向かった。その結果、キャプテン・アメリカは生まれたのだ。
このマスコットからヒーローへの流れをコスチュームで表現するのが非常に上手い。

立ち上がる勇気さえ持てば、なにかを変えることだってできる。
もちろん、恐怖を打ち破り自由を手に入れる事だって。

明日への不安と恐怖によって自由を放棄し、支配されることを受け入れたナチズムに対する盛大なカウンターだ。

 

キャプテン・アメリカの精神

「完璧でなくても善良な君のままで」
本作のテーマは、アースキン博士のこの言葉に集約されると思う。

大切なのは心なのだ。
完璧だとか完全だとか、そんなものは関係ない。

これは放たれた手榴弾に身を投げ出し、人々を守ろうとするスティーブの姿に象徴される。
ティーブは弱い自分にできることは限られていると知っていて、それと向き合っている。我が身を盾に、自分を犠牲にしなければ誰も守れないという現実を理解しており、覚悟を決めている。誰かが危険に晒されたら守ろうと決意しているのだ。たとえ目を固く瞑り体を震わせても。だから迷わなかった。

この愚直なまでの強い意志が、勇気が、善良さがキャプテン・アメリカの精神であり、この精神があるからこそ、現代に蘇る意味があるのだ。

現代は何においてもすべてがより複雑になっており、属性ひとつを取り上げて論ずることはできない。悪においても正義においても。難しい時代に我々は生きていて、道に迷う事の方が最早あたりまえだ。

そんな中、スティーブの生き方は驚くほど単純だ。
攻撃をしてきたら倒す。そうでないなら守る。その中心にあるものは「信じる事」だ。

そう。彼は信じている。
どんなに困難な状況にあっても、人々は立ち向かえるはずだと信じている。
自分のためだけでなく、誰かのためにも行動できるはずだと信じている。
人々は自分の手で、自分たちの進むべき道を選び取ることができるはずだと信じている。

何度間違えても、どれほど弱くても、愚かであっても。

信じる事が疑う事よりいかに難しいかを、我々は身をもって体験している。
強い力に屈する事の方がどれほど簡単かを知っている。

最後は、やっと巡り合えた”本当のパートナー”との未来も温かな家族を持つ夢も奪われて氷の海に沈んでいく。何度立ち上がっても世界はスティーブから奪っていく。
そして70年後の変わり果てた未来の世界でただ独り目覚めてしまった。
なんて残酷なんだろう。

それでもスティーブは絶対に諦めない。
諦めないのだ。
信じることを。立ち上がる事を。

見知らぬ世界であったとしても。

だからキャプテン・アメリカの物語には価値がある。

 

 

MCU関連作品

MCU5作目(前作)

自分が何者であるかを知りたいのならば外に目を向けよ。『マイティ・ソー』

九つの世界の頂点に君臨する神の国アスガルドの王子、高潔な魂を持った者にしか持てない最強のハンマー「ムジョルニア」に選ばれた次期国王、最強の戦士、雷神。

それがもし、何者でもなくなったら…?

肩書が付きすぎて属性の闇鍋状態である本作の主人公、ソー・オーディンソンは、その傲慢さから巨人の住む星ヨトゥンヘイムと戦争を起こしかける。それで父王の怒りに触れ、王位を継承するはずが力とムジョルニアを奪われて地球に落とされる。

大筋は王道だし、よくあるヒーロー譚のプロットだ。

ところがどっこい。
神話×SF×シェイクスピア×ヒーローの不思議な科学作用が空前の爆発力を生み出し、本作を唯一無二の完成度に押し上げている。
荒唐無稽な設定であるうえに、トンカチを振り回すカミサマだなんてどうしたらカッコよくなるのかも分からないが、シェイクスピア映画の名手ケネス・ブラナーを監督に起用することによって古典の品格を取り込むことに成功し、最高にカッコいいヒーロー映画に仕上がっているのだ!

しかもだ。本作の最大の魅力は個性的なキャラクター達にあるのだが、そこをブラナーの演劇的な演出手腕で強化している。
単体でも魅力的なキャラクター達が、複雑に関係し合う濃厚な人間ドラマを織り成す様は必見だ。

ビジュアル以上に分厚い「人間描写」に、ぜひ注目していただきたい。

 

美術とアクションの妙

本題に入る前に見た目の話をしたい。
神話にふさわしい、古めかしい美術や衣装も見どころだからだ。

基本的にはギャグが多くボケ属性のキャラが多い本作だが、それらが過剰になったり荒唐無稽な設定が出過ぎないように、画づくりは徹底して硬派なものになっている。
全てのシーンが中世の宗教画的な構図で切り取られており、クラシックな雰囲気を湛えていてカッコいいのだ。

で、カッコいい画づくりを徹底すればするほど、アスガルド勢が現代地球にやって来たときの仮装パーティー感が際立っていて、一粒で二度おいしい。

それからアクション。
北欧と言えばバイキング。ソーの戦闘スタイルはそのイメージにぴったりな荒々しく力強いもので、洗礼された動きを売りにする事が多い他のアクションものとは一味違う個性を持っているが、下手したら野蛮な印象になりかねない。
そこを古典的エッセンスのある画が支える事によって、荒々しさが神々しさに昇華されている点は実に見事だ。
王族の証たる鮮烈な赤のマントも非常に美しく映えている。

アベンジャーズで他のヒーロー達と合流する前提があるからこそ、その魅力を最大限に引き出すことに余念がないMCU作品のアクション水準は非常に高い。

個性豊かなキャラクター

まずソー自身が魅力的である点に異論は無いだろう。
何者でもなくなるという状況にも関わらず、圧倒的に陽気でチャーミングな男だ。カメラを向けられれば歯を見せてニコっ!と笑うし、カルチャーショックな事件が起きて諫められたらすぐに受け入れる素直さがある。この裏表の無い真っすぐな性格が人々から愛される秘訣なのだろう。自信過剰で不遜な男だが驚くほど嫌味がない。

それからアスガルドのソーの仲間たちだ。

北欧神話をベースにしているのでオタク大喜びのビジュアルだし、それぞれが違った個性を持っていて、そのアンサンブルが最高だ。
ソーと一緒に幼い頃から大暴れしてきたウォーリアーズ・スリーは、軟派な騎士・豪放な巨漢・クールな戦士と王道の布陣を備え、彼らと共に戦う女戦士シフは女傑然としているが、実はソーに対して甘酸っぱい想いを胸に秘めているという、驚きの手厚さである。いつも突飛で無茶苦茶なソーをなだめるフリしてノリノリで付いていく感じは、悪友好きのわたくし前中にはたまらないものがある。

他に9つの世界を繋ぐ虹の橋ビフレストを守る番人ヘイムダルもいる。黄金の目で9つの世界すべてを見渡せるとか厨二の憧れドストレートで慄くし、真面目に見えてソーには甘かったりする人間臭さが良いのだ。

また、ソーの弟、いたずらの神ロキもいい味を出している。
ソーに似ず、戦う事はできるが基本的には頭脳派で若干ヘタレ気味、眉はハの字でどこか弱っちそうな雰囲気が漂っている。が、さすがはソーの弟。野心はしっかりもっているし、彼もなんだかんだ兄が戦いに行くのに嬉々としてついていく。その反面、強烈な個性とカリスマを持っている兄に対して並々ならぬコンプレックスを抱えており、その繊細さが素晴らしいスパイスになっている。本作の面白さの半分はロキが担っているといっても過言ではない。

こんな感じで前半部分は、王道少年漫画みたいな冒険活劇的楽しさがあってとってもワクワクする。

で、ミッドガルド(地球)に落とされてから出会う人間たちもまたいちいち濃くて良い。
ヒロインのジェーンは天文のことで頭がいっぱいだし、政府機関に研究成果を没収された時も猛抗議するなどのガッツを見せるのは、強い女好きのわたくし前中にとってポイントが高い。(ナタリー・ポートマンだから弩級の可愛さだし)

ジェーンの助手をやっているダーシーも、安いお金で雇われているとぼやく割にジェーンと一緒に居るのが楽しそうだし、研究のために砂嵐に突っ込もうとするクレイジーなジェーンにキレて速攻で逃げようとしたりするツッコミ担当要素もあって良い感じだ。あとムジョルニアと言えなくてずっとムニョムニョって呼んでるのがかわいくてほっこりする。

それからジェーンの保護者で指導者のセルヴィグ博士の頑固オヤジ感も好きだ。
亡くなったジェーンの父の友であったこともあり、彼女に向ける目線は優しく、どこの馬の骨ともしれないソーをあからさまに敵視して強いお酒をふっかけて潰そうとしたりするところとかめっちゃいい。(ちなみに飲み比べはもちろん負けた)
しかもこれをきっかけにソーと打ち解けちゃってなんだかんだ巻き込まれるところもポイント高い。

ソーの成長は、力が無くても立ち向かったり困っている人を放ってはおけない彼らとの交流によるところが大きい。

そう。王とはなにも、力を持っている存在のことではないし、王は初めから王であるというわけでないのだ。



※ここからネタバレ入ります



光と影、ソーとロキ

ソーは初めから「持つ者」であり、反対にロキは「持たざる者」である。

だからソーは自分の持っているものを当たり前だと思っている。
王座も力もムジョルニアも民からの信頼も仲間たちも。
でも本当は違う。ましてこれらの要素がソー自身を体現するものでもない。

この事実にようやく気が付くのは、物語の終盤でムジョルニアを持ち上げることができなくなったときだ。
王の資格も神の力もなく、自身を支えてきたアスガルド人としての誇りも奪われて、自分自身がいかに空っぽで空虚なものかを思い知る。

反対に持たざる者としてコンプレックスに傷ついているロキの方が、その事実に気が付いているとはなんという皮肉だろう。しかも自分が捨て子であったという事を知り、家族や故郷すら持っていない事をまざまざと思い知らされたのだ。
自分を見てほしい、受け入れてほしい、対等な立場になりたい。悲痛な叫びに胸が苦しくなる。ロキが王座を求めるのは、本当は王になりたいからではないのだ。

だからこそロキは知っている。王とは、王という意識を以てして「なる」ものなのだと。

でもソーはやっぱり気が付かない。
ロキの叫びの意味が理解できないのだ。恵まれ過ぎているから。

では、本作でソーが見出したものとはなんだろうか。

 

世界の広さに気が付くこと

ソーは9つの世界を見渡せる立場にいるにも関わらず、その視野が酷く狭いことに驚かされる。

彼の中心にあるのは常にアスガルドのみであり、他の世界に対してあまり注意を払っていない様子は最初の無責任な侵攻からも見て取れる。
アスガルドの力を見せつけることにしか興味がないし、それがすべてなのだ。

だがジェーンはどうだろう。
限られた範囲の宇宙しか見れず寿命も短い地球人でありながら、いや、だからこそだろう。その心はもっとずっと遠くを見つめている。好奇心と憧れを原動力に。

世界の成り立ちや9つの世界のことをジェーンに教えるのはソーだが、世界の広さや豊かさを教えたのは間違いなくジェーンの方だろう。
彼女の態度がソーの目を開かせたのだ。だってあんなにベタ惚れだし!

また、他のお人好しな地球人に助けられたことから、ソーはようやく外の世界に住む人たちに注意を向け始める。
そこにはアスガルド同様、日々を生きている人々がいるのだ。

誰かが今日も生きている世界への愛を知って、「守る人」としてのアイデンティティに目覚めるのが面白い。治める王ではなく、守護者になることを決めるのだ。

だから最後は、少なくともロキの傷ついた心に寄り添おうとする態度を示し、自分を盾にするという自己犠牲の精神を見せる。
ここまで丁寧に積み上げてきたからこそ、ムジョルニアを再び手にする姿のカタルシスは一級品だ。

この成長がアベンジャーズに繋がるのは上手いとしか言いようがない。
これまでの傲慢だったソーであれば、地球人のために戦ってくれたりなんかしなかっただろう。

ロキとの関係も含めて、ソーの成長に注目してほしい。

 

 

MCU関連作品

MCU4作目(前作)


『アイアンマン2』はヒーロー映画にあらず

※本記事は全能感を失ったときヒーローになる はじまりの物語『アイアンマン』 - 不可説不可説転の続編の感想です。

 

アイアンマン2』はヒーロー映画にあらず。されど「青春映画」なり。

 

MCUをブランド化し一気にスターダムに押し上げたアイアンマン一作目からすると、世間的に評価はあまり芳しくない。敵が弱すぎる、話に関係ない、スターク家の血筋の呪いをもっと描けたはずだ、武器商人だった父親が全面的に肯定されるなんておかしい、なんでローディーの中の人変わったの、えとせとらえととせとら。

これらは多分、”ヒーロー”映画を期待しているから起こる事のように思う。

強い敵を前に一度はくじけ、しかしもう一度立ち上がって立ち向かい、すんでのところで打ち勝つ。そういったものへの期待。欲しいのは勝利のエクスタシーであり、強き悪が善に屈する姿である。

そういうものを望んでいた人たちはたいがい肩透かしを食らわされてイマイチな思いをさせられたに違いない。
たしかに、出来ばえで言ったら前作に劣る点があることは認めよう。

しかし、だ。わたくし前中は、この映画が大好きなのだ。なぜならこの映画には、人と上手くつながることができなかったトニー・スタークが、少しずつ周りの人々を見つめ、認め、信頼していく姿があるから。そこが良いんだ。そしてこの輝きは青春映画のそれである。

それにアクションシーンは前作よりもパワーアップしていて、変身シーンもかっこよく、「アイアンマン」としての良さは相変わらずある。メカオタクはメカの数々に歓声を上げる事請け合いですぞ!

 

まあ、まずはアクションですよ

青春映画だとか言ったけど、やっぱりまずはアクションの話しがしたいんだ。だってオタクだもの。

今作のアクションは前作からさらに質・量を大きく向上させている。
なんとあの名アニメーター(デクスターズラボとかパワーパフガールズ!)のゲンディ・タルタコフスキー氏がストーリーボード担当として参加しているのだ!!アイアンマンではフルCGのアクションも多用されるので、アニメ独特の外連味を熟知しているゲンディ氏のセンスによってさらにパワーアップしている。つまり、「画」がめちゃくちゃかっこいいのだ。
そこにジョン・ファヴロー監督の整理力とアーマーの魅力を存分に引き出すセンスが掛け合わされて、素晴らしい爆発力を生み出している。

なにより、桜が舞い散る日本庭園で、敵に囲まれたアイアンマンが親友のローズ中佐と背中合わせに佇む姿のなんとカッコいいことか!メカメカしいアーマーと侍のような渋いシチュエーションの掛け算に唸らされる。もうこの画で十分百点満点でしょう、この映画。
さすが、信用できる男たちの仕事ぶりは絶品である。

乱闘中、敵を前にひとり立ちふさがった少年を助け「なかなかやるな」という姿もぐっとくる。これぞ憧れの存在、ヒーローだ!

 

カッコいい変身シーンとメカたち

アイアンマンの楽しみの一つは、毎回異なる変身シーンと言っても過言ではない。

今回も驚くべきアイデアがあってとても楽しい。なんとスーツケース型のアーマーが登場するのだ!どうやって変身するかはぜひ観ていただきたい。メカらしい動きで力強く最高にかっこいい。

さらにあの可愛いロボットアーム達も再登場する。しかも今回からそれぞれのアームに「DUM-E(ダミー)」と「U(ユー)」という名前が刻まれているのだ。トニーの愛情がうかがえてなんだかほっこりしてしまう。

それ以外のガジェットも超パワーアップしている。
例えばトニーの携帯はなんとただのガラスの板になっていて、青い光が映えて未来的でカッコいいデザインになっているし、自宅のラボ全体にホログラムが表れて、それを触ったり投げたりして設計図を作ったりシミュレーションを行ったりする。

金持ちうらやましいという気持ち以上の夢を見させてくれるのは、間違いなくアイアンマンの魅力の一つだろう。

もちろん、楽しそうにメカをいじるトニーの姿も健在だ。
作りたいものを作るために、なんの躊躇いもなく高そうな家の壁や床に穴を空けて巨大な装置を作るし、飛び出す光線が家具をめちゃくちゃにしてもなんのその。この無邪気さが前中は大好きだ。だって好きなことに夢中になってるときは周りなんて見えない、そういうところが自分と同じだって思うと、どうしたって共感せずにはいられない。

トニーはすかしただけの、いけ好かない男ではないのだ!

 

トニーの成長

実は一作目より「トニーの成長」という部分が丁寧に描かれている。

これは長年トニーに寄り添ってきた秘書のペッパーに、父の友であったオバディアにすら譲らなかったCEOの座を譲り渡す姿に象徴される。人を信じようとするトニーの試みも勿論あるが、ずっと一緒だったペッパーと別れて一人立ちするという意味でもあるのだ。
むしゃくしゃすることがあって気晴らしにどこかへ行きたくても、これまではペッパーがどこへでも一緒についてきてくれたのに、彼女にはCEOとしての責任があるから、もうそういう事はできない。厳しい一言をぴしゃりと言われてうなだれる姿が痛々しい。
(もっとも、譲った当初はこの部分に考えが至っていなかったようであるが、そういうある種の幼さがトニーの魅力だと前中は思う)

そうやって一人になってみて初めて、トニーは周囲の人々がどんな人たちであるかを見つめ、本当に大切な人とはなにかについて考え始める。

この部分は唯一の親友であるローズ中佐ことローディが大きな役割を果たす。
トニーの周りには、彼をちやほやしてその才や財にあやかろうとする人間がゴマンといる。
だけどローディはトニーを甘やかさない。でも心からトニーを思いやる人物だ。だからこそトニーに面と向かって間違っていると言うし、本気で怒るし、喧嘩だってする。ほっとくのが一番簡単なのにそうはしないのだ。

それでようやく、トニーは信じるべき人とはどういう存在なのかということに思い当たる。



※ここからネタバレ入ります

 

死にゆく我々が未来に遺せるもの

今作のヴィランであるイワン・ヴァンコはトニー・スタークと紙一重の存在だ。
同じように父からアーク・リアクターを受け継ぎ、確かな才能を持っていてパワードスーツを自力で開発することができる。
では一体、なにがふたりの運命を決定したのだろう。

彼らの明暗を分けたのは、なにが遺されなにを受け継いだのかという点である。

イワンは物語冒頭で、父からリアクターの設計図と技術や知識を受け継いでいることが分かるが、それ以外に遺されたものと言えるのはスタークへの怒りと憎しみだけであり、彼はトニーを殺すことだけを目的として復讐に燃えている。
達成したのちには何も残らないものだ。

対してトニーは、偉大過ぎる父ハワードに自分は軽んじられているというコンプレックスを抱えてこれまで生きてきたが、物語中盤で実は真に愛されていたことを知る。そしてハワードがトニーを信じ、新しい技術を託すべく新元素のヒントを残したことが分かるのだ。
ここには、自分が死んだのちも生き続けることになる未来の息子ために、最良のものを残そうとする愛がある。
そしてその愛が示すものは、考え方であり、姿勢である。達成したのちも新しい道が示され、さらにその先に新しい道が拓かれるものだ。
だからこそトニーは「まだ私に教えてくれるのか」とつぶやくのだろう。

これによってトニーは過去から解放され、仲間の手に頼ることを学び、敵と対峙する。
相変わらず父という過去に囚われ続けているイワンは、だからトニーに勝つことができないのだ。

 

他者を受け入れて生きるということ

もう一つ、イワンがトニーに勝てない理由がある。

それはイワンが周りの人々を拒絶し続けたからである。
彼に手を貸すトニーのライバル、ジャスティン・ハマーは、下心があるとはいえ手を差し伸べてくれた。ここでこれまでの人生を見つめなおし、あくまでも技術によってトニーと勝負することを決意していたのであれば、違った結末を迎えられたかもしれない。
でも憎しみに囚われているイワンはハマーを拒絶し、独りよがりにトニーの抹殺を目論み、自分で操作するドローン軍団を生み出す。
ハマーを見下し裏切ったのだ。(確かにハマーは技術者としてはポンコツでどうしようもないやつだが)

反対にトニーは、一度は差し出された手を拒絶してしまうが、孤立してはじめて自分の周囲の人々に目を向ける。
本当に重要なのはなにかを考えてようやくローディの置かれた立場に理解を示し、アーマーを持っていかせる。ここに他者を信じ受け入れることが示さている。そしてそのきっかけとなった大喧嘩で見つけた、お互いのビームをぶつけると極大威力の爆発が起きる事が勝利の布石になるのだ。

イワンがふたりのコンビネーション技を前に敗れるのは、つまりそういう事だ。
他者を信じ受け入れられるかが今作の鍵であるから、イワンがヴィランとして強いか弱いかはあまり関係ない。

そして周りに目を向けた事で、やっとペッパーがCEOになってどれほどプレッシャーを背負い辛い思いをしたのかを理解し、彼女を支える事を宣言することでついにふたりは結ばれる。
長かった彼らのつかず離れずの関係は、ここにきてようやく重なるのだ。

 

そしてアベンジャーズ

本作は他作品のヒーローたちをアベンジャーズへつなげるための重要なブリッジとしての役割を与えられている。
トニーはアベンジャーズ結成の中心人物のひとりだ。
個性的なヒーローたちとの共演を前に、未熟なトニーが大人になる過程を描いた本作の立ち位置はヒーロー映画としては異質だが、だからこそ面白い。

成長したトニーがどんなふうに振る舞うか、その成果はぜひアベンジャーズで確認してほしい。

 

MCU関連作品

MCU2作目(前作)

怒りと悲しみの先にあるもの 『インクレディブル・ハルク』

怒りに呑み込まれるか心拍数が200を超えると、緑の肌の巨大な怪物「ハルク」になる。

 

ハルクになったら最後、我を失って暴れることしかできなくなる。力の限り暴力を尽くす姿はとてもではないがヒーローとは思えない。よくてアンチヒーローだ。

 

天才物理学博士であるブルース・バナーは、米軍から放射線耐性を測定するという名目で依頼された実験を、自ら被験者となって行い、ガンマ線を浴びた。その裏に潜む権力者の醜い欲望など知る由も無かった。

そして実験は失敗に終わる。

ガンマ線の影響でハルクに変身してしまい、暴れ、恋人であるベティすら傷つけてしまったのだ。

彼は人と生きていくのが困難な存在となってしまう。さらにはハルクの力を手に入れてそのうえ事故を隠蔽ようとする、アメリカ陸軍のロス将軍に追われることになる。

 

それなりに順風満帆だったバナーの人生は、こうして幕を閉ざされる。

 

……と、いきなり暗いムードが漂ったが安心してほしい。上記の悲劇は冒頭5分の素早いカットバックによって即終了する。じゃあ残りはなにかというと、圧倒的パワーを持ったハルクのアクション!アクション!!アクション!!!(と、バナーの逃亡劇)である。

そしてアクション三昧だから大味な作りだろうと舐められがちな本作であるが、実は非常に繊細な演出によって支えらている。ハルク大暴れの裏にはちゃんと、バナーがいかなる変遷をたどってヒーローとなったのかが丁寧に語られているのだ。

 

「ハルクは観なくていいよ」という声も度々聞こえてくるが、そんなのはもったいない。

まずは僭越ながら、わたくし前中のおすすめポイントに耳を傾けていただきたい。


フランケンシュタインの怪物とハルク

前中が醜い怪物と聞いてすぐに思い浮かべたのはフランケンシュタインの怪物である。

原作コミック『超人ハルク』を生み出した脚本家、スタン・リーは『フランケンシュタイン』と『ジギルとハイド』を参考にしたとインタビューで答えたので納得だ。

 

超人ハルクにはフランケンシュタインの怪物の孤独と迫害というエッセンスが大いに取り入れられている。

無責任に生み出され、孤独に追いやられる姿はまさしくだ。

 

最初の場面で「肉体に変化の起きない日数:158日」と出てくるが、職場の工場長の話から彼が働きだして5ヵ月経過したことが分かる。つまり、変身するたびに潜伏地を転々としていることが示唆されるのだ。

望んだわけでもないのに変身してしまうし、騒ぎが起きることは不可避である。安住の地は永遠に訪れず、放浪する事を余儀なくされている。

 

また心拍数が200を超えるとハルクになってしまうので、早い話が恋人とあんなことやこんなことさえできないのである。

人間としての営みからさえはみ出てしまったバナーは、この世界でたった独りの孤独な存在だ。

心拍数に常に気を配っていなければならないから、感情だって殺し続けるしかない。

 

この点がまさにハルクの、ブルース・バナーの物語の魅力だ。

凄く悲しいことだけれど、これらの縮小版であれば体験したことのある人も多いのではないのだろうか。上手くいかずに衝突して居心地が悪くなってしまったり、自分は誰からも愛されないんだと拗ねたり、感情なんていっそのこと無くなればいいと思ったり。

 

それでもバナーは治療して再びベティと一緒になることを望み、懸命に生きている。

ただ暴れるだけの怪物になってしまうのに、どうしたって共感せずにはいられない人物なのだ。

 

怪物+ヒロイン=ロマン

とりあえず怪物ものと言えばヒロインとの交流である。ベティとのやり取りが最高にキュートで、前中が変な涙を流して喜ぶレベルで魅力的だ。

驚く相手に驚いたり、雷を敵だと思ってかばおうと吼えたり、大きく無骨な指でやさしく触れたり、小さく名前を呼んだり。

ベティがハルクに向ける視線も優しく、その姿はバナーに対するときと寸分違わず、ふたりの間にある強い愛情を感じずにはいられない。

ちなみにハルクといえば緑の肌に紫のパンツという姿が有名だが、これをネタにしたシーンがあって前中は爆笑した。

 

気の良いサブキャラたち

本作のサブキャラクターたちはみんな善良で、そういった点でストレスが全然ない。

悪役と言ったら序盤で絡んでくる絵にかいたようなチンピラだけである。

 

追われていると知りながらバナーを匿ってくれる友人のピザ屋の店主や、ハルクがベティを守ろうとしたことに気が付きロス将軍の仕打ちに対して怒るベティの今彼を筆頭に、気前よく車に乗せてくれるおじさんやピザを賄賂にゲートを通らせてくれる気の良い警備員など、愛すべき人々が大勢出てくる。

彼らの行動によって物語はいい方向に進んでいくのだ。

 

やっぱりアクションが好き!

そして本作は意図的にアクションを増やしているので語らないわけにはいかない。

アクションシーンは多種多様でシチュエーションもさまざま。まさにフルコースである。

 

最初のアクションはバナー自身の逃亡劇から始まる。ここが凄くよくて、前中イチオシのシーンの1つだ。舞台は世界最大の貧民窟と呼ばれているブラジルのホッシーニャ。家と家の間に無理やり家を建てたみたいな、異常に密度が高くてダンジョンのような街である。

 

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掲載元:https://www.airbnb.jp/locations/rio-de-janeiro/rocinha

米軍に追われるバナーが、パルクールみたいに建物から建物へと移動したり、土地勘を利用して米兵をトラップに嵌めるように躱す様子は非常に楽しい。

狭い通路を活かした躍動感あふれる画は必見である。

 

またハルクに変身して暴れるという場面が全部で3回出てくるが、それぞれに異なった演出をしているところもいい。

1回目は米兵に追い詰められた工場で変身するが、誰もいない真っ暗な空間に薄っすらと巨体を見せつつ少しずつ相手を潰していく様子が、まるでホラー映画のようでドキドキする。

2回目は大学の広い公園で米軍とファイトするが、今度は米軍側も巨大な兵器を携えてやってくる。正統派モンスター映画的な楽しさがあり、最新鋭の兵器相手に一騎当千のハルクの強さが際立つ。

3回目はついにヴィランとの対戦である。こちらは市街戦で、車や建物を効果的に使って非常に立体的なアクションが展開される。ちなみに技名を叫びながら必殺技を繰り出すという激熱展開もあるぞ!

 

バナーの置かれた立場からしていくらでもドラマ的な作りにできたのに、あえてそうはしかったのだ。

しかしこれには必然性がある。

それは本作が、バナーとハルク、人と怒りについての物語だからだ。



※ここからネタバレ入ります

怒りという感情

注目してほしいのは、バナーがハルクに変身する瞬間にどんな感情を持っていて、どんな動機で戦ったのか、という点である。

 

1回目は、それなりに上手くいっていた日常を突如奪われたことや受けた暴力への怒りや焦りから変身し、感情の赴くままに建物を壊し巨大な機械を持ち上げて投げつけている。

この時のバナーは、単純な怒りに支配されている。

しかし2回目では打って変わって、変身時の彼を支配するのは恋人のベティが傷つけられたという怒りと不安だ。催涙ガスが充満する中、彼の元へ駆け寄ろうとする彼女が引き倒される様子に動揺してガスを吸ってしまい、ハルクに変身する。

そして3回目にしてついに、彼はその他大勢の人々のために変身する事を決意する。

 

怒りには暴力としての側面もあるが、誰かのために立ち上がる原動力にすることもできる。

ハルクに救われたベティは問いかける。

「彼、私のことが分かるみたいだった。制御することはできないの?」

 

重要なのは怒りを押し殺すのではなく、呑み込まれないように向き合い共存することだ。

 

実際中盤で、運転の荒いタクシー運転手にベティが怒りも露わに怒鳴り散らす爆笑シーンがあるが、ストレスによってハルクに変身し兼ねないことを気遣って、彼女は怒るのだ。

この怒りは間違いなくバナーのためのものである。(その形相からかえってバナーは冷静になっているし)

 

強者と弱者

本作には強者と弱者という裏テーマがあると前中は思う。

権力が過ちを犯したとき犠牲になるのは、いつだって弱者である一般市民だ。

 

ロス将軍が軍事力強化と権力獲得のために、超人兵士計画を復活させようとした代償を支払わされたのは、実験の真意も知らない民間人のバナーであった。彼は言ってしまえば被害者なのだ。

なのに彼は事故の責任を負わされ、犯罪者として追われる。

 

しかしだ。

本当に弱者に責任はまったく無いのか?

 

バナーは天才だ。実験の内容を事前にもっと調べていれば、権力者の言いなりにならずに疑っていれば、もしかしたら違う結果になっていたかもしれない。

ヴィランであるアボミネーションだって、バナーが変身の恐怖に屈してスターンズ教授に血を渡していなければ、生まれなかったかもしれない。

確かに悪いのは人を利用しようとする悪意のある者だ。しかし世界は不条理で、力を持たない我々は翻弄されるしかない。

 

そんな中でも立ち向かったか?それでも責任を果たそうとしたか?

この映画は、そう問いかける。

 

今作のヴィランはさらなる力を求めて強欲に溺れた果てにバケモノと化すが、そもそもロス将軍の欲望とバナーの弱さから生まれたといっても過言ではない。

だからバナーは最終戦を前にロス将軍に言う。

「我々は責任を取るべきだ」

 

そしてあれほど恐れていた変身を自らの意思で行うのだ。

 

起きてしまったことに対して、自分は関係ないと心を閉ざすのは簡単だ。

 

でも現実と対峙して、自分のすべきことを考えて、行動したのなら。

たとえ無力でも、勇気を奮い起こして戦ったのなら。

ハルクが人々を救ったように、弱い我々もなにか大きなことを成し遂げられるのかもしれない。

 

インクレディブル・ハルクは、弱者が世界に立ち向かうことを教えてくれる映画だ。

 

MCU関連作品

MCU1作目(前作)


MCU3作目(次作)


全能感を失ったときヒーローになる はじまりの物語『アイアンマン』

アイアンマンことトニー・スタークは完璧超人だ。

父は著名な科学者・発明家・起業家でスタークインダストリーズという巨大軍事企業を一代で築き上げた天才ハワード・スターク。

 

その財産と才能を大いに引き継いだトニーは、最も成功した天才として君臨することを約束されているような男だ。そしてその通りに彼は、燦然と輝く成功という名の体現者として生きている。自分が開発する武器はアメリカの、さらには世界の秩序に貢献しているし、愛国者として大勢から尊敬され、羨望のまなざしを欲しいがままにしている。そんなだから自信過剰でナルシストで気まぐれでわがまま。仕事の用事にすら平気で遅刻する。
しかも嫌味なことに顔がやたらめったら良く、超絶プレイボーイで有名雑誌のカバーを飾るほどの美人モデル達を1年間にわたり11号分喰ってたりする。

 

こんなやつがなんでヒーロー?

 

そのうえ原作のアメコミは当時、一般人の間ではあまり知られていなかったし世界的に見たらまったくの無名と言っていい状態。主人公トニー役に抜擢された俳優は、薬物問題で何度も逮捕され世間から白眼視されていた「汚れ」イメージの強いロバート・ダウニー・Jr。監督にしたって当時はほとんどキャリアが無かったジョン・ファヴローだ。

 

こんなもの誰が観る?

 

しかし世界中の人々がこの映画に熱狂した。

あとは知っての通り、マーベル・シネマティック・ユニバース(略してMCU、アメコミ出版社マーベルコミックの映画化プロジェクトの名だ)はヒーロー大集合お祭り映画「アベンジャーズ」を大成功させ、一躍マーベルコミックのヒーローたちをスターダムに押し上げてエンターテイメントの一大ブランドを築き上げた。

 

なにが多くの人々の心をつかんだのか。

メカの数々が最高

まずはとにかくメカが最高!である。

 

トニーの自宅は超ハイテクなラボでもあり、そこに並ぶ開発用の機器がとにかくかっこいい。メカ特有の無骨感を残しつつも近未来的なデザインにまとめられていて最高にクール。しかもトニー自ら開発した超優秀な人工知能J.A.R.V.I.S.(ジャービス)」が執事代わりに身の回りの世話から開発のお手伝い、話し相手までなんでもこなしてくれる。ボンクラオタクの夢、ここに極まれり。

 

開発のお手伝いをしてくれるロボットアームも2台いて、それぞれ個性的。いちいち不器用なところが逆に愛らしいダミーと、優秀だけどたまに失敗しちゃうユーがいて、トニーはふたつをちゃんと見分けて話しかけている。自分の作ったものに対する愛情も窺えてすごくいい。
こんな感じで最高のラボでノリノリになってアイアンマンのパワードスーツを作るトニーがとにかく楽しそうで最高なのだ。おっさんなのにびっくりするくらい目が輝いてる。作って試して失敗しても「次はこう!」とリトライするし、上手くいけば「自分って天才!」とすごく嬉しそう。このシーンはコメディ演出も際立ってるしテンポもよくて、アイアンマンにおけるハイライトのひとつであることは間違いない。 

 

そして何よりも重要なのが、アイアンマンというヒーローのアイデンティティがまさしく「メカニック」である事なのだ。これまでのヒーローには珍しく、彼は自分で作って自分で戦う。(魅力的なガジェットを使うヒーローといえばバットマンが有名だけど、彼は自分では作らない。)
ただの人間であるトニーは、この点があるため誰かに頼らずとも戦う事ができる。つまり戦うことを決意した日からヒーローになれる男なのである。すべては心の在り方次第。

 

映画公開後、爆発的に人気が上がりスパイダーマンと肩を並べるほどのヒーローになったのは、この部分が魅力的だったというのも大きな要因だと思う。

アクションシーンがかっこいい

もちろん、ヒーロー映画として重要なアクションシーンもかっこいい。

 

そもそも見た目からしてかっこいいパワードスーツを、最大限に活かすための工夫が随所に見られる。ド派手が主流の当時からすると珍しいくらいカメラワークがおとなしいのだが、これが大正解で、かえってスーツが見やすく今どんな状態でどんな技を使ったのかが良くわかる。画面の中をカッコよく動き回る姿を堪能できるのだ。

 

金属製のスーツらしく、機械音と金属音が響くのもいい。
変身(?)シーンでもロボットを使ってスーツを着るのだが、ここもメカメカしくて最高である。メカ萌えオタクは絶対好きなやつ。 

人物描写が魅力的

忘れてはいけないのが、本筋を支える他のキャラクターたちとの掛け合いである。アイアンマンは少ないシーンでもキャラクターの個性が最大限発揮されるよう、ちょっとしたセリフの言い回しや応答が工夫されている。

 

自宅から空港まで向かうのだって一見なんでもないシーンなのに、ハッピーというボディーガードとの短い会話から、どうやらどっちが先に到着できるか競争をしていたことがうかがえる。そこからハッピーと仲が良いことや、ボディーガードと競争するトニーの少し子供っぽい側面と立場の上下を気にしないおおらかさを想像させるのだ。

 

また、秘書のペッパー・ポッツとのつかず離れずの関係がものすごくキュートなのである。
トニーはめちゃくちゃプレイボーイでしょっちゅう遊んでいるどうしようもないやつだが、実は本気の恋には奥手というのがふたりのやり取りから見えてくる。キスシーンなるか!?という場面でまさかの完全受け身なトニーがなんだかおかしい。
そういうところがあるからなんだか憎めないのだ。

※ここからネタバレ入ります

アイアンマンのオリジン

大抵のヒーローは力を手にして初めて目覚めるが、その点アイアンマンは正反対と言える。
彼は初めから力を持っていて、しかしそれに気づいていない男である。いや、もっと言うと彼は実は最初からヒーロー気取りなのである。強力な武器を次々に生み出して世界の平和に貢献できていると本気で思っている。
テロリストに拉致され自分の作った武器が悪用されていると気づくその時まで、彼の世界の中ではおそらく自分は完璧な存在だったのだろう。だからこそテロリストの基地で見かけた、自社のロゴが印字された大量の武器を見てあれほどまでに狼狽えたのだ。

 

彼は重要な部分を見落としていた。
それは武器が例えどれほど強力であっても、正しく使われることがなければなんの意味もない、むしろ存在しない方がよい代物だということを。

 

これまでの自分の在り方全てを否定するほどの現実を目の当たりにして、自分は正義の味方でも何でもないことを思い知らされるのである。自分の財も才能も武器も、手の届く範囲を超えた制御不能の不条理なシステムの一部にとっくに組み込まれているのだ。強烈に突きつけられる無力感。世界は自分が思っていたような姿ではなかったのである。おそらく今作のヴィラン、オバディア・ステインはその部分を体現した存在なのだろう。
こうしてトニー・スタークは全能感を失う。

 

この時、彼は初めて自分の道を見つける。
背負った大きな責任を果たさなければならないことを悟るのだ。

背景に存在するイラク戦争

今作を語るうえでもう一つ重要なのが、当時まだ続いていたイラク戦争である。
アメコミと政治は切っても切れない関係であるからして、無視するわけにはいかない。

 

イラク戦争といえば、当時はさまざまな利害やテロもあって正義の戦いだと信じられていた。しかし蓋を開けてみれば最大の開戦理由であった兵器の大量保有も無かったのだ。
結局いろいろな大義名分を持ち出したは良いものの、さらに事態が悪化したこと以上のなにものでもなかったのである。

 

トニーも最初は自分が正義の人だと信じて疑わなかった。しかし真実はそうでなかったということは前述のとおりである。

 

ここから先に待っているものは疑心暗鬼と、力を手に入れれば入れるだけそれに対抗しようとさらに力を手に入れようとする勢力との血を血で洗うような泥沼の戦いである。

 

戦えば戦うほど深みに嵌っていく底なし沼。

 

多くのジレンマを抱えてトニーは戦うことになっていく。

 

しかし重要なのはまさしくこの点なのだ。
ジレンマを抱えることは苦しいことだが、本当に正しいこととはなにかを真剣に考えることに繋がるものでもある。
トニー・スタークは自身の責任に気づき戦うことを決意したからこそヒーローになったのではなく、たとえ苦しくても何度も悩みながら現実に立ち向かうことを選んだからこそヒーローになったのだ。ヒーローの要件は強さではない。

 

そしてこの在り方こそがアベンジャーズを突き動かす大きな原動力のひとつになっていく。

 

まさしく「始まり」に相応しいヒーロー誕生譚である。

 

MCU関連作品

MCU2作目(前作)


アイアンマン2作目(シリーズ次作)